昭和47年09月26日 朝の御理解



 御理解 第75節
 「人を殺すというが心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ。」
 私共がいつの間にか、難儀の元、苦しまなければならない元と言う様なものを作る。本当に心掛けておらなければならない。人を殺すと言うて、心で殺すのが重い罪じゃとおっしゃる。心で殺すという事は、相手の心に一突きで刺し殺すようにですね、一口の言葉で、鋭く、愚の音も出らんように、相手の事をやり込めてしまう事等は、これは殺す事だと思うですね。又は殺さんにしても、傷つける事だと思うですね。
 信心はどこ迄も、眼に見えない世界、又は心の世界の事なのですから、その眼に見えない神様、又はあるやらないやら分からない自分自身の心。実際は分からない。形にこれが心臓だこれが胃だという風に表れてない、心というものは。けれどもある証拠には、心が訳もないのに暗くなったり、又は訳もないのに浮き浮きとしたり、あれはやはり心のせいなんだ。胃のせいでもなければ、心臓のせいでもないのである。してみるとやはり心はあるのである。その心を大切にする、大事にする。
 それが信心である。眼に見えない神様を拝む。眼に見えない神様にお願いをする。ですからないと言やないあると言やある様なのが、私は心であったり神様だとこう思うのです。そこで段々信心させて頂いて、体験の上からです。神様ありという事を信じれるようになり。そこから自分の心もいよいよ大事にさせて頂く事になってくる。人間同志が傷つけ合ったり殺し合ったり。確かにそれはお上があってお仕置に合う。だからそれを罪を犯したりしたとしてもです。
 その罪はもう補われたようなものである。人殺しをすれば死刑に合うとか、又は懲役に行くとかと言う様にその事によって、罪の償いというものが出来るようなもんですけれども。心で傷つけたり心で殺すのは誰も知りませんけれども。自分自身の心を殺される。自分自身の心を傷つけられる結果になる。それは神様が観てござるからであります。七十四節に、「可愛いと思う心が神心じゃ」と仰る。金光様の御信心で一番力説されなければならないのはこの神心だと思う。
 真心とか真とか慈悲とか、愛とかという言葉で、あらゆる宗教が説いておりますよね。けれども私は金光様の御信心で一番尊い、又そしてそれを頂いて、それを説いていかなければならんのは、神心だと思う。可愛いと思う心が神心じゃと。この神心というのは、よし人から傷つけられたり、それこそ一撃のもとに叩かれるような事があってもです。それを神心で受けますから、一つもこちらに傷もつかなければ、死んでもいない訳です。どころではない相手の人が、不憫になってくる可愛そうになってくる。
 それが神心です。可愛いいものじゃという事。気の毒じゃなという事なんです。そこから、私今日思わせて頂くんですけれども。人を殺すとか傷つけるという事の、傷つけたり殺したり、せんで済む程しのおかげを頂いておかなければならない。自分の心の中にいよいよ神心を頂いておかなければならない。そこから黙って治める事も出来れば、人の心を傷つけるような事も、暗くなるような事も言わんで済むのだ。
 昨日私はある方のお取次をさせて頂いた。兎に角心が重い心が暗いという訳です。訳もないのにやっぱりそうだと。そしたら私が御心眼に頂くのがね。白磁の壺なんです。真っ白の見事な壺なんです。それにこれが枯れてなかったら、どんなに美しい花だろうかというような花が差してある。白磁の壺に花が差してある。所がねそれが倒れとるもん、こうやって壺が。倒れとるもんだから水がこぼれてしもうとる訳です。それでその花は焚き付けにした方がよかちゅうごたる風に枯れとる、というお知らせを頂いた。
 心の中に生き生きとした、愛の花と言うても、真心の花と言うてもよい。所謂心に花をというそれなんです。言うなら心に神心というものがですたい、有難いという心がです。一杯の時にはその壺に一杯水が入っておった。それに花が差してその花が生き生きとしておる時だとこう思うのです。だから確かに幾日前迄かは、この壺が真っ直ぐして、水が湛えられおって、花が差してある時には誰が見ても、白磁の壺も素晴らしいけれどね、花も又素晴らしいと、人から誉められる位なものを持っておるです。
 けれどもそれが倒れておると言う所からです、思うたんですけれども。私はその壺が倒れておると言うよりも、寝ておるという感じがしました。言うなら信心が眠っておるという事なんです。信心が横になっておるという事。如何にもそれは楽な姿勢のようであるけれどもです。どっこい寝とるから、ちゃんと水はこぼれてしもうとる。何時の間にか心の花は枯れ果ててしまっておる。そういう時なんですね、人に暗い思いをさせたり、傷つけたり。殺しはせんでもです、そういう時です。
 それこそ人の心に傷つけるような、何とはなしに言葉に剣がある角がある。だから言うたら、誰彼に当り散らかすという事になる。当り散らかされた者が迷惑。当り散らかされた者が、幸い神心を心の中に頂いておる。心が豊かに有難い生き生きとした花を頂いとる時には、反対に祈れるんですけれども、こっちも迂闊にしてる時にはその言葉でやられる訳です。けれどもその人は又やられなければならない。そういう意味で黙って治めるという事は素晴らしい事ですよね。
 昨日研修会で関さんが発表しておられましたけれども。どうとかおかげを頂いて、御造営が始まって、この頃嘉郎さんが間に合ってよかったという話をした。色々難儀な所を通らせて頂いた。そして心が支離滅裂自分の心は、切り刻まれるような難儀な修行をさせてもろうた。けれどもそれがおかげで回復のおかげ頂いて、さぁ記念祭さぁ御造営という事に、心を向けられる事になった。その事をです間に合うてよかったと言っております。そういう話を、この総会の時にしておる。
 その例を取ってから、関さんが話しておられます。実は嘉郎さんのお話からです、やはり私も、間に合うてよかったという気が致します。熱心な信心をしておられたけれども、何かの調子で、暫く信心を御無礼しておられた。家には立派にお祭りをしてございますから、信心を止めた訳ではない。けれども合楽に通うて来ると言う事を、暫く遠ざかっておられた。おかげを頂いて、又こうやって繁々とお参りが出来る様になった。そうして合楽の記念祭、同時にその記念祭の御用にと言うて御造営が始まっておる。
 だから何とかそこに自分の真を表わしたいと思うて、おかげを頂いておるけれども。こんな事では相済まん。娘さんと二人暮らしですから、娘と話し合ってそれこそまぁ一時金を、銀行から借ってからでも、どうとかしたいと言った様な思いは、切に募ってくるのだけれども。娘の方と自分の信心が釣り合ってないから、言うたら相手に傷つける。いや傷つける所か、お供えをしようという物に、不浄が掛かる様な事であってはならない。そこでお取次を頂いて祈りに祈り。
 願いに願いさせて頂いておったという話なんです。先日から何でも話し合えるような、娘との間に、そういう雰囲気があったから。実は寿子さんお母さんお願いがあるけれどと言うた。そしたらその寿子さんが言われる事が「お母さん御造営費の事じゃろう」と娘が言うてくれたという、発表をしておられました。祈りに祈り願いに願って例えば一つの言うことでもです。問題は娘がそげんああたちゃんとしよるじゃないですか。十三日会の時なんかちゃんとおかげ頂きよるじゃないですか。と。
 言われたらもうそれでお終いになってしまう。そこで祈りに祈り願いに願いという事が大事であって、こちらから只その事に本当のところへ、話をせん先に娘の方がお母さんこの事じゃろうと、こう言うてくれたと言うのです。そうたいとても有難い。親子が心を揃えて真を尽くす事が出来る、有難い。それと少しは意味は違ってもです。誰々さんにこの事はひとつ言うとかにゃという事でもです。これはそれを咄嗟に言うところにです。相手を傷つけたり又は殺したりするのです。
 心で殺すのです。しゃっちそれを言わねばならない事ならばです。祈りに祈り願いに願ってその人の助かる事の為に、言うのでなからなければいけないのです。今日から甘木の教会で、信心の一夜信心実習会がある。合楽から九名おかげ頂く事になっておる。昨日ちょうど女の方達ばっかりですから、委員長と高橋さんと、いつも行って頂くから、二人も書いときなさいと言う事で書いてそうしておる所へ、高橋さんが研修会に見えましたから、明日は甘木へ行って頂くじゃろうと、こう言うたところが。
 それこそもう摘み切るように、「いや私は出来ませんよ」ち、頭をうち振るようにして言われる。そんなら早う断っとかにゃいかんたい。だから是は言う事だけではないですね。例えばそれに対する返事をする時でもです。心掛けて返事をせんと相手の心を傷つける事がありますね。いや私は出来んばの、と言うのではなくてです。実はこんな風で、眼が悪くてこうじゃから、それはやらせても頂かんならんけれども。今度は私は御無礼しょうとか何とか言や。まあそれでいいのです。
 もうそれこそ摘み切るような言い方をする人があります。是は高橋さんだけじゃないです。是は言う時だけではない。返事をする時でも私もそういう癖があるです。自分ながらそれを思うんです。相手をチクッと刺すような、言い方やら返事やらをする時がある。これは人事じゃない自分自身も。さぁ昨日の研修会では心が有難うなっとる時じゃから、一つも問題ないのだけれども。迂闊に言うて迂闊にそういう返事が返ってくると、その返事だけででも、今度はこちらが傷を受けなければならない事になると。
 返事をしたばかりに、相手を傷つける事になったりする事すらがあるのですからね。本当に難しい事ですよね。けれどもやはり私は心掛けさせて頂いておかなければならないという事と、同時にその前提であるところのです。可愛いと思う心が神心じゃという、その神心を、いつも頂かせて頂く精進という。いつも自分の心が、和賀心である事を精進しておくとか。だからこれは傷つけるも殺すもです。そういう時には絶対自分の心が枯れ果てておる時です。
人の心にそれこそ剣を刺す様な言い方をする時には。潤いが心にない時です。是では自分自身が傷つけられなければならないです。いつも自分もそれこそ半死半生の思いをしなければならないです。自分が傷つけたり殺したりしとるもんですから。所謂神が観ておる。実際の形の上で人を殺すと言う事は、お上があってちゃんとお仕置にある様に、神が観ておると仰るのだから、神様の教えを受けておるのです。
 本当に黙って治めるという事がです。言いもせねばならん時もあるけれどもです。それ前に私はね祈りに祈ってとか、願いに願ってというようなものが要ると思う。そして言わんですむ程しのおかげを頂きたいと思う。言わにゃ分からん時もあるから、言わにゃならんけれどもです。それはそれけんち言うちから、言われても返事もせんち言うなら、どんこんされんもんね。もう黙って治めるでも、言われたっちゃ黙って、ブゥッとしてから、ジロッと見るだけの人がありますよ。
 私は本当にそれを不思議でたまらん事があるとですよ。私の家内がそげんところがある。こうこうち言うとですね。ハイと言うかわりに、目でジロッと私を見るだけです。それで自分な返事をしたつもりでおるとですたい。こっちは睨まれたもんじゃから気色が悪うしてから、返事ぐらいせんかち、今度また言おうごとなってくる。あれは言わんですむじゃなくて、言おうごつなか時ですね、あれはちっと煩わしい事でも言うたりすると、ハイハイち、例えば普通なら言うところをです。
 ジロッと見ただけで、もうそれで返事をしたつもりでおる訳です。こっちが気色の悪かそげなこつは。だから見ただけでもやっぱ心を目付きの悪い見方をするとたい。目で言わば見殺す事がある訳です。いやそれは睨み殺すちいう事がありますからね、やっぱ。これもやっぱ傷つけたり殺したりするです。本当に目は口ほどにものを言うち、昔から言われる通りですたい。
 だから心がですね本当に有難い時には、優しい目付きをしてますよ、やっぱりどうしても心に剣のある人は、やはり目に剣があります。それで眼でやら口でやらで傷つける事になりますから、愈々重いですその罪は。だからそういう人はやっぱり自分の心を、いつも切り刻まれるような、悩みとか苦しみを持ってるです。相手は殺したつもりでもないでも、こっちは殺されたというような場合すらあるのですからね。
 これは本当に私共が、信心にならなければならないと思うです。そして傷つけちゃならん。例えば殺すような事があっちゃ尚更ならんと心掛けておるだけではなくて、本当に自分自身の心がです。神心を目指いつも和賀心を目指させて頂いて、言うなら有難いなぁという時なら、人を言葉をもってしても、自分の表情をもってしてもです。相手に何とはなしに有難いもの、尊いものを感じさせる事が出来ると思う。
 そうする事はどういう事かと言うと、人の心を生かす事になる。人の心が傷ついておるならそれを癒してあげる働きがある。そんなら、それもやはり神様は、見逃し給うはずはないのですからね。人の心を生かし、人の心を癒してあげる程しの心の状態というものは。神様が観ておいでられるから、それの反対はお仕置に合うように、それの反対はご褒美を受けるという事になるのじゃないでしょうか。
 それをおかげと言うのです。これは私共は一日のうちに、どれ程それこそ睨み殺したり、刺し殺したりしとるような事があるか分かりません。心掛けさせて頂くと同時に、その大元になるところの心の状態をです。いよいよ喜びの心で一杯にしておかなければならない。そげん時にはですね。もう確かに言わんですみますからね、どんな場合であっても。本当に有難い祈りを、どんな場合であっても、送ってやれる程しのおかげが頂けるのです。今日は私は、この七十五節からですね。
 人を傷つけるとか殺すとかというけれども、それを迂闊にして傷つけたり、迂闊にして殺したりするのですから、心掛けておっても、あら失敗したという事になるのですから。そういう事の、全然失敗せんですむ心の状態を、私は神心という、ここの前提になるところ、傷つけたり殺したりせんですむ心の状態を神心。しかもその神心は相手を生かす、傷ついているものを癒す働きすらがあるのですから、そこんところを頂いていかねばならんという事を、今日は聞いて頂きましたですね。
   どうぞ。